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表千家と裏千家の違い・どっちが有名か|道具/作法/点て方

更新日:2024年04月01日

表千家と裏千家、茶道を代表する二つの流派の違いを、簡単にご紹介しています。それぞれの流派の成り立ちや、作法、道具の違いなどをみていくと、お茶の世界の奥深さが見えてきます。これからお茶を始めたい方も、それぞれの特徴から、自分に合った流派を探ってみませんか。

表千家と裏千家ってなんだろう

インバウンドや爆買いといった言葉もすっかりおなじみになりました。街を歩いていても、海外からの旅行者をたくさん目にします。そんな旅行者に人気があるのが、「抹茶」を使った商品です。

いかにも日本的な抹茶ですが、もともとは「茶道」で使われ、日本文化の一役を担っています。

「茶道」ときくと、少し堅苦しいようなイメージで、詳しいことがわからないという方も多いのではないでしょうか。今回はそんな「茶道」の家元である「千家」について、中でも「表千家」と「裏千家」について、その違いなどを解説いたします。

表千家と裏千家の違い

そもそも、「表千家」と「裏千家」には違いがあるのでしょうか。

実は、同じ千家と言えども、この二つにはたくさんの違いがあります。茶道に詳しくないという方も、これからお茶を習いたいという方も、表千家と裏千家の違いを知って、自分に合った茶道はどちらかみてみましょう。

「茶道」について

「茶道」は「茶の湯」とも呼ばれ、その始まりはずいぶん歴史をさかのぼります。お茶を楽しむための、数々の作法があり、いろいろな流派が、それぞれの作法を受け継いできています。

また、現代においては、ただ「お茶を楽しむ」だけでなく、その考え方や芸術性、さらに使う道具の美術的な価値など、日本文化の総合芸術といってよい存在でしょう。

また主人が客にお茶をふるまう儀式の中で培われた精神性は、今でも日本人の「おもてなし」の精神に通じるものがあり、日本人にとって、その影響は少なくありません。

すぐにわかる茶道の歴史

それでは、まず簡単に「茶道」の歴史を振り返ってみましょう。

お茶は、そもそも中国大陸で使われ始め、その後日本に伝えられました。日本に伝わったのは9世紀前後、遣唐使によると考えられています。中国では、8世紀には「茶経」と呼ばれる書物も作られ、日本に伝わるころには、ある程度体系だったお茶の知識が成立していたと考えられています。

有名な空海や最澄も、お茶を持ち帰ったとされていますが、その後、あまり日本では広まることなく時代が変わっていきます。

茶の湯の発展

平安時代に伝わったお茶は、嗜好品として楽しむよりも、薬としての役割が大きいものでした。庶民が楽しむには、まだ高価で、その使い方も限定されていたため、貴族や僧侶によって受け継がれていきます。

そんなお茶の歴史が、大きく変わるのが鎌倉時代です。鎌倉時代に、日本に臨済宗を伝えた栄西(ようさい)は、同時に中国から抹茶法を伝えます。栄西は九州、そして京都の宇治にも種を伝え、茶の栽培の広がりとともに、茶を飲む習慣も広がっていきました。

室町時代には、お茶の産地を当てる一種のばくちのような「闘茶」が始まります。また使う道具にも中国からの高価な輸入品の器が使われ、「唐物(からもの)」としてもてはやされるようになりました。

茶道の大成

茶の文化は、室町時代に入り、足利将軍家を中心に、さらに広まっていきます。そこで登場するのが村田珠光です。

珠光は能や連歌などの教養に加え、禅も学び、茶の湯に精神的な芸術性を見出していくことになります。貴族のものであった茶の湯から、庶民にも親しみやすい形へも変えていきました。

その後、武野紹鴎が、茶の湯の道具に日常的な日本製の器を使うなどして、侘茶を完成させていきます。そのあとを受け継ぐ形で、登場するのが千利休です。

千利休は唐物趣味を尊重せず、むしろ自身で道具を製作し、より装飾性をなくすようなシンプルな茶の湯を極めていきます。一期一会の精神で、おもてなしをする利休の茶の湯によって、日本の茶道は大成したと考えられています。

三つの「千家」について

千利休によって大成された「茶の湯」ですが、その後どのような経緯で表千家裏千家などに分かれていくのでしょうか。

茶道を極め、芸術にまで高めた利休ですが、時の権力者豊臣秀吉によって切腹を命じられ、その生涯を閉じます。利休のあとを継いだのは、その嫡男千道安でしたが、後継ぎがなく断絶します。

一方で、婿養子の小庵が京都に千家を再興し、二代目を継いで、活躍することになります。さらに、小庵の跡を継いだ三代目が宗旦です。

一時仏門に入っていた宗旦は還俗し、三代目となり、侘茶の精神を追求します。彼には四人の子供がいたのですが、その中で長男以外の三人が、それぞれに茶道を志しました。この三人が、のちの表千家・裏千家・武者小路家へとつながっていくことになります。

表千家とは

最初に千家を継いだのは、三男である江岑宗左(こうしんそうさ)でした。次男は、宗旦が隠居するころ、漆屋に養子に出されていたため、三男が千家を継ぎ、表千家となります。

江岑宗左は表千家を象徴する茶室「不審菴(ふしんあん)」を継ぎ、千家流茶道の本流として表千家を確立していきます。江戸時代に入り、茶の湯に造詣の深かった紀州徳川藩の招きに応じ、紀州徳川藩の茶頭として活躍することになります。

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初回公開日:2018年03月13日

記載されている内容は2018年03月13日時点のものです。現在の情報と異なる可能性がありますので、ご了承ください。
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